古河 潤吉(ふるかわ じゅんきち、明治3年10月4日〈1870年10月28日〉 - 明治38年〈1905年〉12月12日)は、日本の鉱業家、古河財閥2代目当主。陸奥宗光の次男として生まれ、市兵衛の養子となる。
来歴・人物
1870年10月28日(明治3年10月4日)、和歌山県雑賀屋町に、陸奥宗光・蓮子の次男として生まれる。翌年、東京深川清住町に移る。1872年3月19日(明治5年2月11日)、母・蓮子が病死。1873年(明治6年)、古河家の養子となる約束が結ばれる。1876年(明治9年)、深川小学校に入学。1877年(明治10年)5月18日、祖父・宗広が死亡。同年、京橋木引町に移り、鍋町小学校へ転校。1878年(明治11年)、麹町区飯田町に移り、華族学校に転校。父・宗光の投獄のため6月に退学し、番町小学校に入学。
1880年(明治13年)2月28日、番町小学校を退学して古河家に入り、1883年(明治16年)5月24日、入籍の手続きを完了させる。入籍手続きが終わると間もなく、養父・市兵衛の教育方針に従い、足尾銅山での実地見学が始まる。1884年(明治17年)11月13日、祖母・政子が病死。1887年(明治20年)1月1日、義弟・虎之助が生まれる。
1888年(明治21年)5月20日、陸奥家、公使館書記官・佐藤愛麿及び技師・近藤陸三郎と共に、アメリカ留学のために横浜を出帆する。6月3日、サンフランシスコに着き、同月7日からワシントンに入る。1890年(明治23年)11月から養生のためにセーラムに転居。1891年(明治24年)6月にワシントンに戻り、9月からコーネル大学に入学し、専科生として化学を専攻する。
1893年(明治26年)9月にコーネル大学を修了して帰国。同年10月20日から足尾に入山し、経営に参与する。11月に日本初のベッセマー法を採用する。1897年(明治30年)1月に古河家事業組織の確立を企て、総務部長となる。同年8月24日、父・宗光が死亡し、兄・広吉が陸奥家を継ぐ。
1903年(明治36年)4月5日、市兵衛が死没し、4月11日に古河家を継ぐ。市兵衛の相続人として、東京養育院、東京慈恵院、福田会育児院、東京感化院などに対して寄付を行う。7月21日、東京鉱山監督署長・中村清彦から足尾銅山除外工事施行を命じられる。
1905年(明治38年)1月6日、虎之助を養子とする。同年3月21日、古河鉱業会社を新設し、3月24日に社長に就任する。
1905年(明治38年)12月12日、肺炎を発し、午後7時に死去。享年36歳。同日に勲五等瑞宝章を受章する。同月16日に葬儀が行われ、「大秀院釈智勝大居士」の戒名が付けられる。同月、虎之助が家督を継ぐ。遺贈金は兄の廣吉によって雨潤会基金となり、文化振興に充てられた。
家族
- 生家(陸奥家)
- 祖父 - 伊達千広
- 祖母 - 政子
- 父 - 陸奥宗光
- 母 - 陸奥蓮子(旧姓・吹田)
- 兄 - 陸奥廣吉
- 養家(古河家)
- 養父 - 古河市兵衛
- 義弟 - 古河虎之助
著作等
遺稿
- 古河潤吉「鉱業誌」『開国五十年史』 下巻、開国五十年史発行所、1908年2月、485-518頁。全国書誌番号:51009917。
- 編集作業の途中で死去したため、未定稿のまま刊行された。
- 稿本『鉱業』が筑波大学附属図書館に所蔵されている。
伝記
- 五日会『古河潤吉君伝』五日会、1926年12月。全国書誌番号:43052229。
脚注
出典
参考文献
- 五日会『古河潤吉君伝』五日会、1926年12月12日。 NCID BN1202344X。OCLC 672407571。
- 『古河虎之助君伝』古河虎之助君伝記編纂会、1953年8月30日。 NCID BN07353536。OCLC 834681106。
外部リンク
- 『古河潤吉』 - コトバンク




