ジェームズ・リロイ・トーマス(James Leroy "Lee" Thomas、1936年2月5日 - 2022年8月31日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州ピオリア出身のプロ野球選手(外野手、内野手)、野球指導者、GM。右投左打。
経歴
プロ入り前
イリノイ州ピオリアで生まれ、セントルイスのボーモント高等学校を卒業する。
MLB時代
ニューヨーク・ヤンキースのスカウトであるルー・マグオーロの勧誘を受けて、1954年からヤンキース傘下のマイナーリーグでプレー。マイナーリーグでは好成績を挙げるが、ヤンキースの強力な野手陣になかなか割り込むことができなかった。
1961年に初めてメジャーに昇格するが、わずか2試合出場したところで、同年5月8日にロサンゼルス・エンゼルスへトレードされる。エンゼルスでは一躍外野手のレギュラーの座を掴み、打率.285、24本塁打の好成績を挙げた。9月5日のカンザスシティ・アスレチックスとのダブルヘッダーでは、11打席9安打の固め打ちで、特に第二試合では3本塁打8打点の猛打を披露、ダブルヘッダーで9安打を挙げた8選手の一人となった。翌1962年には、オールスターに初選出された。7月10日の第一試合では代打で登場するが凡フライに倒れ、7月30日の第二試合では終盤2イニングに左翼手として守備に就いたが、打席には立たなかった。同年、打率.290、26本塁打、104打点のキャリアハイを記録した。
1963年になると打率.220、9本塁打と不振に陥り、1964年のシーズン途中でボストン・レッドソックスへトレードされる。レッドソックスでは1964年は主に右翼手、1965年は一塁手を務め、1965年は打率.271、22本塁打、75打点と調子を取り戻している。1966年以降はアトランタ・ブレーブス、シカゴ・カブス、ヒューストン・アストロズとナショナルリーグでプレーするが、年々成績を落とした。
南海時代
1969年に南海ホークスに内野手として入団。開幕戦に「3番・一塁手」として出場し早速1号本塁打を放つと、4試合で16打数10安打、打率.625の固め打ちを見せる。しかし、好調は長続きせず、終盤は若手の高橋博に定位置を譲り、シーズンでは打率.263、12本塁打の平凡な成績に終わる。チームの若返り策もあり、1年で退団・帰国した。
アメリカ球界復帰
1970年はセントルイス・カージナルス傘下のAAA級タルサ・オイラーズでプレーし、135試合に出場して打率.268、8本塁打、66打点、2盗塁を記録した。この年が現役最後のシーズンとなった。
引退後
引退後はカージナルスでコーチ、傘下のマイナーで監督を務めた。だがトーマス本人は、現役時代からゆくゆくは球団フロントの仕事に就きたいと考えており、その希望は1976年にカージナルスの販売推進部へ配属されて叶うこととなった。その後、遠征管理部を経て1981年には編成部長に就任し、1988年まで務めた。在任中、カージナルスは8年間で3度ワールドシリーズに進出しているが、トーマスはオジー・スミスをトレードにより獲得するなど戦力補強の面で貢献した。
1988年6月よりフィラデルフィア・フィリーズのGMに就任し、チームがワールドシリーズに進出した1993年には最優秀エグゼクティブ賞を受賞している。
1997年12月にフィリーズを退団してからは、レッドソックスのGM補佐、アストロズとミルウォーキー・ブルワーズのプロスカウト、ボルチモア・オリオールズの球団特別補佐兼副社長を歴任した。
詳細情報
年度別打撃成績
記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:1回(1962年)
- NPB
- 初出場・初先発出場:1969年4月12日、対ロッテオリオンズ1回戦(東京スタジアム)、3番・一塁手で先発出場
- 初本塁打・初打点:同上、9回表に坂井勝二から右越2ラン
背番号
- 17(1961年 - 同年途中)
- 32(1961年途中 - 1964年途中)
- 6(1964年途中 - 1965年)
- 9(1966年 - 同年途中)
- 8(1966年途中 - 1967年)
- 28(1968年)
- 4(1969年)
- 50(1972年)
脚注
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 T
- 北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧
- 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- Lee Thomas at SABR (Baseball BioProject)

